一期一会 選・桑原茂一  ゲスト:宍戸留美 一期一会 選・桑原茂一  ゲスト:宍戸留美

一期一会 選・桑原茂一
ゲスト:宍戸留美

一期一会 選・桑原茂一

一期一会 選・桑原茂一

SHIPS'S EYE

1989年、15歳で芸能界に入り、ルンルンの愛称で多くのファンを集めた宍戸留美さん。その一方で、ドロドロとした芸能界の世界で悲惨な目に遭い、18歳のときにアイドルとしては前代未聞のフリーランス宣言。現在の地下アイドルたちの元祖といえるようなDIYな活動を続け、その後に声優として開花した。そんな酸いも甘いも噛み分けた宍戸留美さんのお話は、女性が強く生きて行くためのアイディアが詰まっています。

桑原 宍戸さんと初めてお会いしたのは、まだ18歳くらいでしたよね?

宍戸 そうですね。

桑原 当時、『ブルーフィルム』という性をテーマにしたコメディをやっていて。そのときに、リリー・フランキーから「どこにも所属していないアイドル」ということで紹介されたんだけど。僕はアイドルに詳しくないから、それがどういうことなのかよくわからなくて。ただ、きっと大変なんだろうな?、勇気がある人なんだろうな?って思っていましたよ。

宍戸 そのとき、リリーさんのギターで一曲唄わせて頂きましたけど、まだ18歳だったこともあって、性をテーマにしたものはよくわからなくて。うまくできなかったというか、何かモヤモヤと引っかかっていたんです。そんなことがあったので、Facebookで茂一さんが『桑原茂→の×××ラジオ(ピーラジオ)』をやると公表したときに「わたし出たい!」って声を上げたんです。

桑原 ハ○ジの声で原発ネタを演じるというね(笑)。本当に素晴らしい活躍をしてくれて、感謝しています。それで、この連載では毎回、自分の思うように生きている女性からお話を聞いているんですね。というのも、日本の社会はモラルというか、こうあるべきっていう考えが強くて、そこから外れることをみんな恐れていると思うんです。そんな人たちに向けて、自分らしく生きることは難しいことじゃないよ、っていうのを伝えたくて。宍戸さんの場合は、やはり18歳という若さでフリーランスのアイドルになった話ですかね。

宍戸 私は15歳のときに応募したオーディションで8万人の中から選ばれて。それが人生のピークだったんですけど(笑)。そこから2年間事務所に所属して、CBSソニーからシングル7枚、アルバム2枚を発表しました。テレビにも出ていたんですけど、当時はアイドル冬の時代で歌番組も無く、バラエティに出させられることが多かったんですよ。前へ前へと出られるタイプでもなかったので苦手で。そんななか映画のお話を頂いたんですけど、とある大御所の役者さんにセクハラを受けて。それがトラウマでドラマにも出たくなくなってしまったんです。

桑原 いきなり芸能界のドロドロとしたものを見たんですね。

宍戸 そうなんですよ。事務所に入っていても誰も守ってくれなかったので、もう誰も信じないという自我が芽生えて。

桑原 へぇ?。

宍戸 マネージャーも1年のうちに8?9人とか変わって、そのなかには私のファンもいたりして。そうすると、飛行機でもうかうか寝られないんです。パッと目が覚めたら、目の前にマネージャーの顔があったり。

桑原 人によっては、芸能界なんてもともと真っ当な社会ではないから、そこに入ることを許可した両親や子どもがセクハラで文句を言うのはおかしい、という意見もあるけど。当事者としてはもっと夢がある世界だと思ってたんだよね?

宍戸 そうですね。ある日、母に「オーディションを受けたい」と言ったらすごいビックリしていて。実は母も女優になりたくて東京に出たことがあったらしいんです。そんなこともあって応援してくれましたね。ただ、事務所に入っても給料7万円で、交通費と衣装は自分持ち。母親にお金を貰ってアイドルを続けていたような感じです。2年間で1000万円くらい。だから、私がそういう目にあっていることは一切言っていなくて、私は私で闘わないとと思っていたんです。いまはネタですけど、当時はキツかったですね。

桑原 こんなはずじゃなかったというのがありつつ。自分ひとりでやっていくぞという自信みたいのはどこから生まれたのかな?

宍戸 やっぱり人がきっかけなのかなと思いますね。リリー・フランキーさんとか加藤賢崇さんとか、周りにアンダーグラウンドと言われる人がいっぱいいて。こういう表現の仕方もあるんだとか、そこでいろいろ学びましたね。周りに絵を描いたり唄ったりしている人がいたので、自分も絵を描いて展示会してみようとか。ファンの人にと「じゃあこれ2000円で買って」みたいなやりとりをしたり。自分で物販をする最初のアイドルなんですよ。

桑原 そういう人たちと何故友だちになったの?

宍戸 リリーさんは、私のラジオ番組の構成作家だったんです。宮沢章夫さんもいらしたんですけど、ふたりとも遅刻して原稿書かないような人で。すごく出会いが良かったですね。

桑原 一種のやすらぎだったんだね。

宍戸 そうですね。事務所を辞めてもそういう方たちとは繋がっていて、そうこうしているうちにリリーさんが歌謡曲専門のインディーズレーベルを立ち上げることになって。「私やる!」って言ったら、「じゃあ50万円持ってきて」と言われ(笑)。そこでまた母親に電話して「100倍に返すから」って。盤を作ったはいいんですけど、それをどうしていいかもわからず、流通の会社があることも初めて知ったんです。自分で各社を回って、いまも一緒にやらせて頂いているUKプロジェクトと出会ったんです。

桑原 リリーは意外とクールな面もあるんだね(笑)

宍戸 いや、ジャケットのプロデュースをやってくれて。CDを敷き詰めた上に、ワールズエンドの洋服を着てさるぐつわをして、『Kill Your Idol』って刀で切っているという。それが話題になって、『ニューヨークタイムズ』で日本の10人に取り上げられたんです。その撮影の前も「さるぐつわ買ってきて」って言われて、よくわからないまま新宿のそういうお店に行って。白が欲しかったんですけど青しか売ってなかったり、撮影中はよだれをダラダラ垂らしたりしていました。

桑原 おおらかな性格だよね。そういうことに対して、余計なことを考えず、純粋的というか本能的にやってしまうんだから。

宍戸 リリーさんのセンスを信じてたからじゃないですかね。そのときはまだリリーさんも無名でしたけど、この人はすごい才能を持っていると思っていたので。

桑原 それを見抜く力がお互いにあったというのは、才能のある者同士はピンとくるってことなのかもね。『桑原茂→の×××ラジオ(ピーラジオ)』のときに素晴らしかったと言ったのは、宍戸さんは自分が何をすべきかが瞬時に浮かぶ人だなと思ったんです。パーツパーツではなく、全体を見渡せるというか。これは相当経験を積んでいる人だなと思ったんですよ。

宍戸 ありがとうございます。

桑原 それで、『ニューヨークタイムズ』とかで話題になって、これまでに投資したお金は戻ってくるようになったの?

宍戸 音楽はビジネスにするのがすごく難しくて。でも、同じ時期にオーディションでアニメの声の仕事を頂いたんです。芸能界は裏がありましたけど、オーディションで決まる世界を知ってすごく新しいなと思ったんですね。それからは声優の世界でたくさんお仕事を頂いて、自分が生きていくぶんくらいは稼げるようになりました。やっといま、徐々に母親へおこずかいをあげれるようになりました。

桑原 じゃあ、声優業はすごいターニングポイントだね。新しい表現の場をアニメーションに求めるきっかけは何だったの?

宍戸 アイドル時代、歌のなかにセリフが入っている『ドレミファソラシドシシドルミ』というアルバムを出していたんですね。それを東映動画の方が聴いてくださって、そのとき探していた『ご近所物語』という作品の主役・幸田実果子役が合いそうだと。でも、どんな人なのか、芝居ができるのかもわからないので、まずはオーディションとなったんです。

桑原 アニメの世界のことは知っていたの?

宍戸 ソニー時代に、「OVA(オリジナル・ビデオ・アニメーション)というのが流行っていて、その主題歌を歌わせて貰ったことがあったんです。その縁で、ひと言ふた言を喋るような出演はしたことがありました。

桑原 じゃあ、アニメの世界には興味もあって、作品も観ていたんだ。

宍戸 いや、全然観ていなかったですね。でも、すごい世界だなとは思っていて。アイドル時代、声優さんと全国を回ったことがあるんですけど。見た目がかっこ良くない人でも、声を発しただけでファンが失神するんです。みんな想像力がすごいな〜、と思って。

桑原 でも、宍戸さんにハ○ジの声をやってもらったとき、いきなり絵がバッと浮かんだんだよね。そのとき、技術を身につけた人なんだなって、すごいと思った。案の定、みんなに聞かせるとウケるし。『スネークマンショー』をやっているとき、伊武雅刀さんは『戦艦ヤマト』だったり、当時のアニメ界のスターだったんですよ。だから、いろいろと声優の仲間たちを連れてきてくれて。でも、どう考えてもこの人が芝居をする人とは見えないほど地味な人が来るんだよね。なのに、声を出した途端にパッーと絵が浮かぶ。宍戸さんは、アニメをやるようになったことで何か変わったことはある?

宍戸 その作品、キャラクターを守るっていう気持ちが生まれましたね。傷つけちゃいけないし、私生活もちゃんとしないとっていう。また、そのキャラクターの台詞に自分自身が浄化されたり、精神安定剤みたいな感じで。

桑原 そうなんだ。たとえが極端かもしれないけど、例えば勝新さんみたいに、社会から見ると外れた人、おかしな人って評価されている人がいますよね。でも、クリエイティブの世界では、そういう人のほうが魅力的だったりする。そうなんだけど、そこに行く人はごくわずかで、大多数の人はその業界が要求する何かになっていくというか。いつの間にか、社会の要求にうまく乗った人が生き残っていくという、何ともいえない思いが残るんだけど。宍戸さんは、事務所に所属せずにやっていくなかで、そこはどう折り合いをつけているの?

宍戸 私は自分がやる意味のあるものしかやらないです。もし、かわいい役でオーディションに受かったとしても、3回目くらいでどこか毒があるというか裏があるようなキャラクターに自分が変わっていて。徐々に脚本も変わってっていくというか。最初は乗っかるんですけど、そこから自分を発揮するようにしています。役を獲ったらこっちのものですから。

桑原 すごい! アニメ界の勝新がいた。勝新さんの本を読んでいると、監督を動かし、カメラマンを動かし、脚本家を動かし、あらゆる人を動かして自分の世界に引きずり込んでいくんだよね。あれはすさまじいパワーだなと思うんだけど。ジャンルや表現の仕方は違っても、宍戸さんもそういうタイプなんだね。ちなみに、周りにもそういう女性はいる?

宍戸 最近はやりやすいから増えてきていると思いますよ。

桑原 社会が容認するようになったってこと?

宍戸 自分がないと嘘がすぐバレちゃうので。例えばツイッターの一言でも、その人の人となりがすごく出ちゃいますし。この人はこんな人なんだと、見破る目もみんな持っている。昔の芸能界にはあった、包み隠されていたものが無くなってきていますよね。だからこそ、いま坂上忍さんとか有吉さんとかが人気なんだと思いますね。みなさん本当に苦労されている方たちだと思うので。

桑原 デジタルなものに行き過ぎるとアナログが欲しくなるように、バーチャルからリアルとか、人間はある方向に振れると反対に戻ろうとする生き物だと思うんです。お話を聞いていると、宍戸さんはイメージの世界も大事にするんだけど、どちらかというとナマの自分を見せようとしているような気がしている。間違っています?

宍戸 合ってます。それで、30代のときに60年代、70年代、80年代の3部作のアルバムを作ろうと思ったんです。そのときに、最近の音楽はどんなのかなと聴いてみたら、耳が痛すぎてまったく聴けなくてびっくりしたんですよ。このアルバムは、ミュージシャンの呼吸とか動きとかも伝わるようにしたくて一発録りにしているんです。

桑原 作ってみて、自分の居心地がいいのはどのアルバムでしたか?

宍戸 どれもですね。これをきっかきにして、フランスやドイツにライブをしに行くことができて。フランスはアニメが人気なので行きやすいんです。ネットで「フランスに行くよ」って書き込むと、オタクの人も来てくれたり。彼らとFacebookでつながったりして、これは正しいSNSの使いかなと。

(上から下へ)
3部作として制作されたアルバム。
60年代をテーマにした『CHERBOURG → BRIGHTON』
70年代をテーマにした『女』
80年代をテーマにした『Ruminescence』

桑原 そうだと思う。宍戸さんは、これまで自分のやるべきことを続けて来たわけだけど。やるべきことっていうのは、どういう条件が揃ったときなのかな。

宍戸 表現のツールが変わるだけで、基本的には何でも全部やってみたいですね。でも、そのときに自分で目標を決めるというか。例えば、「この一年は何もかもやめて、声優だけに絞って声優雑誌の表紙になる!」とか。そのときは実際にレギュラーを5本くらいやって、表紙にもさせて頂いて。そのときに、これでまた音楽ができると思ったんです。世の中に向けての説得材料が揃ったというか。次は「30代のうちにアルバムを3枚出そう」と決めて、そこからは音楽漬けの日々ですね。基本的に舐められたくないので、そのためにも続けることは大事だと思います。

桑原 それはどんなエンジンなんだろうね。華奢なのに、相当大きいエンジンを積んでいる気がする。

宍戸 好きなことを好きな人たちとやりたい、そういうときはすごく進むんです。

桑原 めげるときもあるの?

宍戸 あんまりないですね、やっぱり18歳のときには敵わない。白髪にもなりましたから。誕生日のプレゼントやファンレターが一切なくなり、雑誌には宍戸留美死亡と書かれたり。その記事を読んで、編集長に「私は生きてます!」っていう年賀状を出したんです。そうしたら8Pの特集を組んでくれて、それを見たフジテレビの人が『ウゴウゴルーガ』のレギュラーに抜擢してくれたんです。

桑原 何か自分から事をおこすと、必ずいい方向に転ぶっていうことが続いてますね。

宍戸 そうですね。でも、人に恵まれてきたんだと思います。

桑原 デジタルの音を聴いて耳が痛いという感覚の一方で、津田大介さんと番組をやられたり親しいですよね。津田さんはデジタルの子どもみたいな感じで。これまで、時代の突端にいるってことは、文化的なものを誰よりも早く知っていることだったけど。ある時代から、技術的なスキルとかシステムの変化を一番最初にわかっている人が突端になった。そのあたりのバランス感覚として、宍戸さんはどうしてアナログ的な仲間とも、IT的な仲間ともうまくやれるのかな。

宍戸 インターネットは、チャットの時代からやっていたんですね。まだ黎明期でしたけど、自分のホームページが作れるってわかったときには、これはすごいツールになると思ったんです。アナログ時代、フリーランスのアイドルなんて連絡先を探すのに一苦労でしたから。ツイッターとかも早く始めていたおかげでフォロアー数が増えたり。趣味というより仕事の一環として、デジタル系のことに関しては、まずはやってみるという姿勢ができていますね。一方で、ソーシャルメディアって泡だなって思うこともあって。

桑原 それはどういうこと?

宍戸 2010年のとき、デビュー20周年ということで何故かソーシャルメディアで注目を浴びたんです。そこでのやりとりから、「20周年を記念して、宍戸留美の妹分を募集しよう」となったんですね。300人くらいの応募の中から、時間をかけて蝦名恵という子に決めて。でも、選んだ次の日からソーシャルメディアにいた人たちが誰もいなくなったんですよ! それには驚きましたね。また、かつては一晩に何万人も集まったユーストリームも、いまや100人を切る状態になっているとか。これは地に足を付けて歩かないと、恐いことが起こるなと。いまは、デジタルでもアナログでも、大事なのは続けることだと思って頑張っています。

桑原 今も昔も、かっこいいものや可愛いものに憧れたり、ちやほやされたい気持ちみたいなのはあると思うんです。そういう世界、芸能界のような場所で生きていきたい人に、何かアドバイスはありますか?

宍戸 小学校6年生のときに、担任の先生から卒業のメッセージを貰ったんですけど。そこに「自分の目で見て、自分の耳で聞き、自分の判断で」と書かれていて。私はそれを実践していますね。明日お会いする予定の人にすごい悪い噂があっても、私とその人の関係だから関係ない。そういう感性を磨くことですかね。

桑原 これだけの情報社会にいても、誰か偉い人の言葉を真に受けるのではなく、どんな大きいことも小さいことも、自分で第一情報に触れる。それをしてきたってことなんですね。

宍戸 そうですね。例えば、「明日のメイクさんすごい巧いから」とか「あのスタイリストさんすごい売れているんだよ」とか聞いていても、実はすごくダサかったりすることが昔から多くて。大人たちは、売れているかどうかでしか判断できないんだなって。ピカソだって、いま生きていたら絶対に世に出したくない作品もあるだろうに、ピカソというだけでみんな凄いと騒ぐ。そういうのに小さい頃から拒否反応があるんです。でも、自分はそれを利用してやろうという思いもあって。だから、声優を頑張って、声優雑誌の表紙を狙おうとか。大人が安心する材料を作りたいという気持ちもありますね。

桑原 本当に自分で切り開いてきたんだね。何十年ぶりにお会いして、「何か手伝いますよ」と仰ってくれたので、何を手伝ってもらおうかと思ったけど。全部手伝ってもらったほうがいいのかなって思っている原因は、ここにありましたね。あんまり計画的な人でもなさそうだけど、実は計画してそうだよね。今後はどんな活動をしていきたいですか?

宍戸 もう妹分募集から4年経ってしまったので、何か彼女(蝦名恵)の作品を世に出したいですね。いまCDを作っていて。あのときサッと逃げていった人に「こんないいの出したよ」って見返したいです。

桑原 一回決めたことを守り続ける、その信念みたいのはどこから生まれたのかな?

宍戸 守らない人が多いからじゃないですかね。

桑原 アハハハ。いろいろ経験してきて、もう恐いものはなさそうだね。それは経験した人だけが得られる素晴らしいご褒美で、話を聞いただけで身に付けられるものではないね。

宍戸 何かやりたい職業があったとき、みんな学校に行くじゃないですか。でも、私の考えでは絶対に行かないほうがいい。学校に行ってしまうと、声優とかみんな同じ表現方法で、息づかいも句読点もみんな一緒。だからこそ、お笑いの人や音楽をやっている人が声優をやると、おもしろいアニメになったりするのかなって。唯一のアドバイスは、専門職を目指す人は学校に行かないこと、ですかね(笑)

桑原 ありがとう。今後もいろいろとよろしくお願いしますね。

宍戸留美  歌手・声優・女優・タレント

1989年、ロッテ主催『ロッテCMアイドルは君だ』にて、約8万5000人の中から4代目グランプリを受賞。『コズミック・ランデブー』で歌手デビューし、『第9回メガロポリス音楽祭』優秀新人賞受賞。92年、フリーアイドルに転身。95年、インディーズ界初の歌謡曲専門レーベルより『SET ME FREE』を発売。『ニューヨークタイムズ』誌で、日本のアーティスト10人に選ばれ、同年にアニメ『ご近所物語』の主人公の声と主題歌を担当。その後も音楽活動を活発に続ける。03年には、NHKみんなのうた『ぶたまん大家族』でイラストを担当。自身のアルバムも発表。また、映画『NANA』に出演するなど、さまざまなジャンルで活躍。08年からはフォトグラファーとしての活動を始めるなど、活躍は多岐に渡っている。