SHIPSと人 〜『GINZA』編集長・中島敏子さん〜 SHIPSと人 〜『GINZA』編集長・中島敏子さん〜

SHIPSと人 〜『GINZA』編集長・中島敏子さん〜

SHIPSと人 〜『GINZA』編集長・中島敏子さん〜

SHIPS'S EYE

ファッション感度の高い女性たちから、いまもっとも支持されている雑誌『GINZA』。毎号、独自の視点でまとめ上げられた特集や、充実のカルチャーページ、最後まで引き込まれる読み物ページなど、雑誌ならではの遊び心や知性が詰め込まれている。今回はそんな『GINZA』がどのようにして生まれたのか? 編集長の中島敏子さんに伺いました。


――編集者としてのキャリアも伺いたいのですが、まずは中島編集長の思春期体験というか、ファッションやカルチャーに触れる最初のキッカケを教えて頂けますか?

中島 私は都内の女子校出身で、そこは中学から私服だったんですよ。カルチャーショックを受けたのは、中学校に入学してすぐの自己紹介。すごくオシャレでおませな子が、「IVYって知っていますか?」みたいなことを言い出して、突然IVYについて語り出したんです。私は受験勉強が終わって「やっと入れた、ワ〜イ!」って感じだったんですけど、いきなり洗礼を受けましたね(笑)。いま考えると、うちの学校はおしゃれさんが多くて。その頃に流行ったのは、サスペンダーにボックススカートで、ラインソックスを履くような若い女の子の基本ともいえるスタイルでした。

――街のトレンドもそうだったのですか?

中島 多少そうでしたけど、中学生としてはかなりおませでしたね。でも、その時代は一学年ごとにどんどん流行りが変わったときで。高校時代など、私たちの一学年下はカラス族といわれるようなDCブランドでした。でも、私たちの学年はIVYベースのプレッピーが多かったですね。そこで基本を学べたのはいい経験だったと思います。最初から着崩すのではなく、基本から徐々に崩していくようになったので。

――私服だと、学校帰りにもいろいろと遊べますよね。

中島 家が三鷹で、学校へ行くまでに吉祥寺と新宿があったので、しょっちゅう街には出ていました。休みの日などは、丸1日かけて吉祥寺を歩き回っていましたね。

――音楽にも影響を受けましたか?

中島 音楽の影響も大きくて、高校〜大学とバンドをやっていたんです。女の子バンドって「次は何を着て出る?」とか、ファッションから入ったりもして。自分たちが着るものをすごく意識しましたし、好きなミュージシャンの着ている服にも興味がありましたね。その頃は四人囃子の追っかけで。私はギターをやっていたので森園勝敏さんのファンでしたが、お洒落なのは圧倒的にベースの佐久間正英さんなんです。彼が着ていたフルーツオブザルームのTシャツをみんなで探しに行ったりしましたね。

――大学時代はどんな感じだったのですか?

中島 ファッションの思い出は、とにかくコムデギャルソンに欲しいジャケットがあって。バイトして必死でお金を溜めて、清水の舞台から飛び降りる覚悟で買いました。それは擦り切れるくらいまで着ましたね。5月号で『私の人生を変える服』という特集をしたのですが、私にとってはそのジャケットなんです。どんな人にも、流行関係なく個人的な思いとしての「この一枚」、「忘れらない一枚」というのがあると思うんです。そんな、洋服とそれを着る人のナイーブな関係に触れたくて企画を立てたんです。私もコムデギャルソンのジャケットを着て大学構内を歩いていたら、スポーツ新聞の記者に声をかけられて「キャンバスのあの子」みたいなページに載った思い出がありますよ(笑)

――就職活動では、最初から出版社を目指されたんですか?

中島 出版社というよりも、編集がやりたかったんですよね。でも、当時は新卒採用がほとんどない時代で。そんな中うっかりリクルートに入っちゃったんです。そこで「編集がやりたいです」と言ったら、人事の人に「ここは営業の会社よ!」ってすごい剣幕で説得されて。それはそうですよね(笑)。それでも編集を希望したら、『週刊住宅情報』の編集部に配属されました。そこに3年弱くらいいて、私の一番の下積みといえる大変な時期でしたね。お偉いさんたちの会議のお弁当注文から始まり、昔ながらの接待もしましたし。でも、勉強になることも多かったです。数字に厳しい会社なので、壁中に折れ線グラフとかが貼ってあるんですよ。週の目標、月の目標、期の目標、個人の目標、グループの目標、事業部の目標、すべてをクリアしていかなくてはいけなくて。数字に向かって何をするかみたいなことは、そこで叩き込まれましたね。マガジンハウスとは真逆の会社でした(笑)

――リクルートからマガジンハウスに転職されたのですか?

中島 一瞬フリーランスみたいなこともやっていましたけど、中途採用でマガジンハウスに入社して。最初は『ブルータス』編集部で、長い間ファッションとアートの担当をしていました。その後『ターザン』に少しいて、『リラックス』ですね。でも、当時の『ブルータス』は本当に恐くて。とはいえ、私も私でいけ好かない奴でしたけど(笑)

――マガジンハウス、特に『ブルータス』は別格な存在でしたよね。

中島 選民意識が強かったですね。斉藤和弘さんが編集長になられた頃から変わりましたが、私がいたときは毎日信じられないような事件が起きていました(笑)。言えないことがいっぱいありましたね。伝説として知られている象一頭250万円の領収書の話も『ブルータス』ですから。いま考えると常識外れですが、愛くるしい先輩というかダメなおやじばっかりでしたね(笑)

――破天荒なことをしてこそ優秀な編集者、という雰囲気が昔はありましたよね。


中島 そういう雰囲気でしたよね。会社に入ってすぐに言われたのは「絶対に人の真似をするな」「他誌の真似なんか絶対にするな」「常に一番であれ」ということでしたね。でも、一番雑誌がキラキラしていて、マガジンハウスというブランドも輝いていた時代だと思うんです。みんな自分の会社にプライドを持っていましたし、私も自分の名刺を出すのが好きでした。『ブルータス』編集部は個人商店の集まりみたいな感じで、みんなそれぞれのプロフェッショナル。自分の担当に関することは専門家以上に詳しかったですね。そのなかで自分は何をすればいいのか焦りましたよ。「キミは何が得意なの?」「何を読んできたの?」「何を聴いてきたの?」っていろんな人に聞かれるので、毎日背伸びしていました。ファッション担当になったんですけど、ファッションのこと、特にメンズのことはわからないのでいろいろ勉強しました。メンズのファッションはルールや制限が多く、その中でどう遊ぶかが勝負だったりするんです。そのときに培った経験は、いまの誌面ににじみ出ているかもしれないですね。


――『GINZA』の編集長になられたときに、「私ならこうしたい」という部分は一番何が強かったですか?

中島 女性誌をやった経験が一度もなかったので、女の子のファッションは完全に読者目線だったんですよ。なので、私が普段女性誌を見てつまらないと感じていた部分を、おもしろいと思えるもので補充していった感じです。

――その補充した部分っていうのは、カタログ的にトレンドを紹介するのではなく、独自の視点・切り口でファッションを考えるということですか?

中島 そうですね。洋服に関しては中学生のときからいろいろと着続けているので、ファッションに対しての思いはあったんです。どちらかというと常に天邪鬼で、流行=流されるという感覚でした。つまり、どれだけ個性を出すか、どれだけ他の人と違うファッションをするかというのが、私のアイデンティティだったんです。でも、ファッション誌というのは当然流行があって、トレンドがあって、それが重要なファクターなので。その部分をうまく合致できればいいなと思ったんですよ。着る人が主役にならないと意味がないですし、流行っていれば何でもいいというわけではなくて、自分が着て着こなすことが大事。そのためにいろんな切り口で、ああでもない、こうでもないと企画を考えています。


――『GINZA』はデザインもかっこよくて、思わず手が伸びる表紙ですよね。

中島 本屋さんの女性誌コーナーって、女性たちの甲高い声が聞こえてくるようなピンクのお花畑みたいな光景ですよね。そこではみんなが声高に叫んでいて、ちょっとでも目立とうとしている。ベテランの書店員さんに聞いた話では、本屋さんで女性が雑誌を手に取るまでの時間は2秒なんだそうです。そうなると、有名タレントさんの顔がアップで、文字も大きく、直感的に響く表紙になるのは仕方がないなと思うんです。でも、その世界で私が勝負をしても意味がないし、そもそも私には無理なんですよ。それならば、最初から『GINZA』だけをまっしぐらに買いにきてくれる読者を育てようと思ったんです。アパレルで言えば、顧客さんを増やす感覚です。

――デザインや写真の撮り方は、どんなポリシーをお持ちですか?


中島 マガジンハウスは伝統的にAD(アートディレクター)を重んじる雑誌が多くて、『GINZA』をやることになったときもまずはADが大事だなと思ったんです。そこで、初対面の平林奈緒美さんにお願いしに行って。当然断られると思ったんですけど承諾して頂けました。いま考えればよく頼んだなと、平林さんもよく請けてくれたなと思いますね(笑)

――仕事のされ方は他のデザイナーさんと違いますか?

中島 ものすごいですよ!

――それはどんな点ですか?

中島 アートディレクターとして、本当に最初から最後まですべてを見ているんです。私たちの世界ではあまりこだわる人がいない、巻末のインフォメーションページのフォントにまで厳しい指示が入りますから。そして何より平林さんが一番優れている点は、実際には手数が見えない一枚写真でも、しっかり打ち合わせをしてくれるところなんです。そこはやっぱりすごい。私たちは平林さんと一緒に作っているようなものですね。スタッフィングの相談にも乗ってくれますし。


――先ほど、直感的に選ばれる雑誌ではなく、顧客さんを増やしたいというお話しがありまたが、想定しているターゲットはあるのですか?

中島 こういう女の子に読ませたい! みたいなものはないですね。あるとすれば、東京から発信する雑誌でありたいということです。でも、インターナショナル誌ではないので、日本の女の子が満足してくれればいい。いまこの時代に同じ空気を吸って日本で生活している女の子なら、どんな洋服を着ていても、どんな音楽を聴いていても、どんなアイドルが好きでも、みんなが共通してキュンとくる「かわいい」ポイントがあるんじゃないか。そんなスウィートスポットを追求しているつもりです。

――読者は東京の人が多いですか?

中島 そうですね、都会型の雑誌なので。読者はちょっと自意識が高い女の子かも知れない。『GINZA』を読んでいることが自分の喜びであったり、ちょっとしたプライドでもあったり。

――その感覚って最近めっきり減っていると思うんです。昔ならちょっと背のびして『STUDIO VOICE』を買ってみたり、読めないのに海外の雑誌を買ってみたり。『GINZA』にはその空気感があるんです。

中島 そういう意味では、ハードルが高いのかもしれないですね。

――マーケティング的な観点で言えば、ハードルの高い本だと思いますよ。

中島 雑誌なので流し読みして頂いて構わないんですけど。『GINZA』はわりと文字が多くて細かいですし、写真にしても情報量が多いので、ちゃんと向き合わないと読めない誌面になっているんです。パラパラとめくりながらも、思わずじっと見てしまったり、何回も見てしまったり、滞空時間の長い誌面を目指していますね。


――読ませるページと、見せるページのメリハリがはっきりしていますよね。

中島 まだまだ課題だらけですが、気を引くページでありたいと思うんです。ヴィジュアルにしても、テキストにしても、企画にしても。写真の撮り方は平林さんの領域としてお任せしている部分もありますが、企画や言葉の使い方、タイトルにしては私がチクチク言っていますね。言葉って、ジワジワとボディブローのように効いてくるんですよ。そこで目にしたうっすらとした気分が積み重なって、最終的に『GINZA』を好きになってもらえたらいいなと思って。なので、言葉選びや書き手の人選にはこだわっています。

――最後に、本作りにかける思いを教えて頂けますか?

中島 ヴィヴィットな年齢のときに何かを読んで、それが心の糧になるような経験は誰にでもあると思うんです。雑誌を発信していく立場の人は、その人の人生に何かしら影響を与えるかもしれないということを意識しながら作るべきで。そういう意味では、若い読者に伝えたいことは山ほどありますね。私の座右の銘は「闘魂伝承」なんです。橋本眞也がアントニオ猪木の「闘魂」を受け継ぐために、その文字が刺繍されたマントを着てリングに立つんですけど。「闘魂伝承」って先輩から与えられたものを後輩にちゃんと伝えるってこと。私は先輩たちから学んだ「人生のおもしろさ」や「雑誌のおもしろさ」みたいなものも伝えなきゃいけないし。雑誌ってそういう媒体だと思っているんです。ですから、私が作りたいだけの本を作っている気持ちはまったくなくて、『GINZA』はいま日本に住んでいる女の子に向けた、私なりの応援メッセージなんです。

――今日はお忙しいなかありがとうございました。


中島敏子

マガジンハウスのカルチャー/ライフスタイル誌『BRUTUS』の編集者、『relax』の副編集長を経て、2011年4月よりリニューアルした『GINZA』の編集長を務める。

GINZA

25〜35歳の働く女性をターゲットにした総合ファッションライフスタイル誌。最新モードをふまえつつ、心地よいスタイリングを提案するファッションペー ジや、コスメ・ビューティー、インテリアページと、スタイルを持った女性達が、自分にもう少しプラスする何かを見つけられる雑誌。最新6月号発売中。